日本の高度経済成長期が1973年のオイルショックにより、終わりを迎えたあとの経済についてみてみましょう。
今回は、日本の1980年代のバブルについて、詳しく解説します。
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バブル経済とは
バブル経済とは、不動産や株式などの時価資産価格が、経済成長以上のペースで高騰し、実体経済からかけ離れてしまうことを指します。
バブル(Bubble)は英語で「泡・あぶく」という意味で、バブル景気は「泡沫景気(ほうまつけいき)」と呼ばれることもあります。
日本経済は、1986年から1991年までバブル景気を経験しました。
バブルを経験した年代の方は、それがどのような時代だったのかよくご存じでしょう。
若い人も家族や先輩達から、バブル時代の話を聞いたことがあるのではないでしょうか。
今振り返ると異常な状況であったバブルが、なぜ発生して、そして崩壊してしまったのか、詳しく見ていきましょう。
バブルはなぜ発生したのか
日本がバブルに突入するきっかけとなったのが、1985年9月の「プラザ合意」です。
プラザ合意とは、先進5か国(G5)蔵相・中央銀行総裁会議で発表された、為替レートに関する合意で、その名称は会議の会場となったアメリカ・ニューヨークのプラザホテルにちなんでいます。
当時のアメリカは、急速に発展する日本からメイド・イン・ジャパン製品がたくさん輸出され、自国製品が売れなくなっている状況を懸念していました。
そこでアメリカはドル安によって自国の貿易赤字を改善させたいと考え、プラザ合意ではドル高の是正(円高ドル安への誘導)を目指すことで各国が合意したのです。
1ドル240円台だった日本円は、1年後には1ドル150円まで急速に円高が進みました。
急激な円高進行によるショックを和らげるため、日本政府は内需主導型の経済成長を目指して公共投資拡大などの積極財政を進めたほか、徹底した低金利政策を打ち出しました。
日銀が銀行に貸し出しを行うさいの金利となる「公定歩合」を、年率5%から2.5%まで段階的に引き下げていき、企業や個人がお金を借りやすくしたのです。
お金が市中に出回りやすくなった結果、「カネ余り」が発生し、余ったお金は株式市場と不動産に流れ込みました。
1980年年初には、13,100円台だった日経平均株価は、1989年の大納会で38,900円台の史上最高値を記録しています。
不動産価格は数年で約4倍にも値上がりし、「土地の値段は永遠に上がり続ける」という「土地神話」を信じた人々による不動産ブームが起きました。
企業も積極的に買収を行ったり、接待費や交際費を湯水のように使い、近場でもタクシーを当たり前のように利用していました。
さらに、リゾート地やゴルフ場なども次々に建設されたのです。
バブルはなぜ崩壊したのか
そんなバブル経済は、やがて終焉を迎えます。
1991年から1993年までがバブル崩壊期間とされており、1990年に入ると株価が急激に下がって地価も次第に下がっていきました。
バブル崩壊の要因は、主に日本政府と日銀の政策によるものでした。
まず、一定以上の広さの土地を持つ企業や個人に税金を課す「土地税」を導入し、多く土地を持つ人ほど支払う税金が増えるようにしたのです。
また、銀行に一定以上のお金を貸すことを禁じる「総量規制」により、銀行はお金の貸し出しを控えるようになり、土地を買うためのお金がなくなってしまいました。
さらに日銀が公定歩合を2.5%から6%にまで段階的に引き上げていったので、ますますお金を借りにくくなりました。
このような政策を一気に行ったため、土地の価格は急落し、借金を抱える人や倒産する企業が続出したのです。
金融機関の破綻も相次ぎ、北海道拓殖銀行(拓銀)や日本長期信用銀行(長銀)、山一証券などの大手金融機関が倒産しました。
バブル崩壊で日本の金融機関が抱えた不良債権は、総額で100兆円を上回りました。
バブル崩壊によるダメージは大きく、日本経済はその後長期間にわたり停滞を続けています。
まとめ
日本の1980年代のバブルについて解説しました。
1985年のプラザ合意をきっかけとして、バブル経済を突き進んだ日本経済は、日本政府と日銀による「バブルつぶし」によって1990年代に入り崩壊しました。
バブル期の贅沢な体験談や、就職の圧倒的な売り手市場の話を聞くと「バブルっていいなあ」と感じる人もいるかもしれません。
しかしその実態は経済の実力からかけ離れた、行き過ぎた熱狂であり、まるで泡がしぼむように崩れてしまう危ういものだったのです。