今回は、1976年にノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者、ミルトン・フリードマンを取り上げます。
新自由主義を提唱したフリードマンは「現代のアダム・スミス」とも呼ばれ、経済理論だけでなく一国の経済政策にも大きな影響を与えた人物として知られています。
ポール・A・サミュエルソン(1970年)【ノーベル経済学賞】
貧しい家庭から、シカゴ大学の教授へ
フリードマンは1912年にニューヨーク州ブルックリンで、ハンガリーからの移民である両親のもとに生まれました。
決して裕福ではなかったフリードマンは、奨学金を得てラトガース大学に進学し、ウエイターや家庭教師をしながら、数学と経済学を学びました。
さらに奨学金を獲得してシカゴ大学に進み、1946年(34歳)にシカゴ大学経済学部の常勤となったのです。
フリードマンはシカゴ大学を中心とする「シカゴ学派」のリーダーとして多くの経済学者を育て、政治にも強い影響力を持つようになりました。
1976年(64歳)にノーベル賞を受賞しましたが、受賞を知らされたフリードマンは、ノーベル賞に対する疑問を呈するなど批判を行いました。
フリードマンの言動は一部で物議をかもし、スウェーデンではフリードマンの受賞に反対する数千人規模のデモ行進も行われたのです。
さらに、その後1986年(74歳)には日本の中曽根内閣から「勲一等瑞宝章」、1988年(76歳)にはレーガン大統領からアメリカ国家科学賞と大統領自由勲章を授与されるなど、その業績は国内外で高く評価されました。
そしてフリードマンは2006年に94歳でこの世を去りました。
代表作「新主義と自由」で「新自由主義」を提唱
フリードマンは1962年(50歳)に発表した著書「新主義と自由」で、「新自由主義」という考え方を提唱しました。
当時の世界は、アメリカを中心とする資本主義陣営と、旧ソ連を中心とする社会主義陣営に分かれていました。
そのような世界情勢のなか、フリードマンは資本主義の正当性を示しつつ「政府が介入しすぎると失敗する」と提唱したのです。
さらにこれを深堀りしたのが1980年(68歳)に発表された著書「選択の自由」で、冷戦状態のなか不景気にあえぐアメリカで、再び新自由主義の理論を強調しました。
公共事業などによって、政府が市場に介入することで経済がうまくいくと主張したケインズ理論を批判し、再び自由主義に光を当てたのです。
これは市場の原理を「見えざる手」にたとえて自由放任を主張したアダム・スミスの考え方をさらに推し進めたもので、フリードマンは「現代のアダム・スミス」とも呼ばれました。
マネタリストの総帥
またフリードマンはマネタリズムを提唱し、マネタリストの総帥(そうすい)ともいわれています。
マネタリズムとは、良好な経済を形成するために、貨幣供給を行う中央銀行の役割が重要だとする考え方です。
通貨の供給量が増えれば物価が上がってインフレになり、供給量が減れば物価が下がってデフレになると主張しました。
世の中に流れるお金の量をうまくコントロールさえすれば、経済はうまくいくとしたのです。
1980年代にアメリカのレーガン政権や、イギリスのサッチャー政権が経済政策の柱としてマネタリズムを掲げ、大きな注目を集めました。
フリードマンは、1960~70年代にかけてケインズ主義がインフレに対する有効な対策を取らなかったことを強く批判し、マネタリズムの重要性を強調しました。
しかし、のちにインフレとデフレが通貨の過不足からは説明できない現象となり、マネタリズムはその有効性を急速に失っていくこととなりました。
まとめ
アメリカの経済学者で1976年にノーベル賞を受賞したフリードマンは、新自由主義を提唱し、現在に至るまでのグローバリズムの基礎を築き上げました。
フリードマンは「個人の自由」を何よりも重要なものとして考え、これを守るのは政府ではなく自由市場だとしました。
政府が介入すると問題が多く起こり、規制は差別を生み出す原因になると主張したのです。
自由を何よりも重視する考え方は「リバタリアニズム」と呼ばれ、新自由主義の根底に流れています。
フリードマンの思想はアメリカのレーガン大統領や、イギリスのサッチャー首相の政治思想に影響を与え、日本でも小泉首相や中曽根首相が新自由主義的とされています。
1982年から86年にかけては日本銀行の顧問を務め、その後も日本の経済の問題点を指摘したり提言を行うなど、日本との関係も深い経済学者でした。
貧しいユダヤ人家庭に生まれ、努力により華々しいキャリアを築いたフリードマンの人生は、まさにアメリカンドリームを体現したといえるでしょう。